源氏1951批評3:なぜ秘密の関係は知られているのか
前回の記事「源氏1951批評2:みんなにバレてる不義密通の関係」で確認したことは、原作では厳重な秘密であるはずの光源氏と藤壺の密通関係が、吉村公三郎監督・長谷川一夫主演『源氏物語』(1951)では多くの登場人物に知られており、それが不自然さを引き起こしているということでした。
どうして、原作を歪めて、不自然な印象を残すこうした設定にしたのかということについて、考察していきましょう。
私は、作中の設定の自然さよりも、視聴者に対する印象付けというメタ的な動機が優先させた結果ではないかと思います。具体的になにを印象付けたいかと言えば、それは「光源氏にとっての最愛の女性は藤壺である」ということであり、「光源氏と藤壺の関係こそ作品の骨格である」ということです。
『源氏1951』には、光源氏と関係を持つ女性が全部で5人います。素朴にこれら5人の関係にそれぞれ時間を割り当てるだけであれば、光源氏はそれぞれの女性を愛したのだという印象が残ることになるでしょう。しかしながら、本作の制作陣は藤壺を源氏に愛された多くの女性のうちの単なる1人ではなく、藤壺が源氏にとって最愛の女性であったと印象付けたかったのではないかと思います。
葵上も朧月夜も紫上も、更に弘徽殿までもこぞって藤壺との関係を口にするのであれば、藤壺が出ない場面でも視聴者は源氏と藤壺との関係を意識せざるを得なくなり、藤壺との関係こそが物語の中心であり、源氏の最愛の女性は藤壺であろうと感じさせられてきます。
小説の場合、地の文での説明を加えることによって、源氏が最も愛しているのは藤壺だとわからせられるのですが、映像作品ではナレーションを加えない限り、台詞を通じてそのことを視聴者に伝えるしかありません。本作では説明的なナレーションは付さず、代わりに様々な女君に藤壺の名前を語らせることで、源氏の最愛の女性が誰であり、誰と誰の関係が物語の中核であるかを、視聴者に伝えようとしたのではないかと思われるわけです。
とりわけ、源氏と関係を持つ葵上や朧月夜や紫上に藤壺の名前を語らせることは、彼女たちは藤壺より下位の女性でしかなく、藤壺との関係こそが源氏にとって至上なのだということを視聴者に印象付ける効果があります。
源氏と藤壺の恋愛関係の強調は、他の描写からも伺えます。光源氏が藤壺の死を看取る場面が描写される点です。源氏が藤壺の死を看取る場面は、源氏物語の原作にも確かに存在しますが、この場面が映像化されることは意外に少ないのです。少なくとも私が見たことがある映像作品の中では、この『源氏1951』しかないはずです(未見の『源氏1990』には、もしかしたらあるかもしれない)。
他の映像作品では、藤壺が出家する場面で二人の関係の描写に終止符が打たれることが多いです。このような終わり方になると、藤壺は最終的に光源氏を捨てた、二人の恋愛は成就しないままに終わったという印象を与えやすくなりますよね。
しかしながら『源氏1951』では、出家後に死の床についた藤壺を源氏が見舞う場面まで描かれます。更に、これは原作にはない描写ですが、藤壺は源氏のことを「恋しい人」と呼び、藤壺にとっても源氏が最愛の男性であったことを告白するのです。
本作の源氏と藤壺の関係には紆余曲折があり、最初の密通後も執拗に関係を迫る源氏に対して激しく抵抗する藤壺の様子も描かれます。演者である木暮実千代の厳しい表情も相まって、藤壺は源氏のことを本当に嫌っているのではないかとも感じさせます。
しかしながら、まさに藤壺が亡くなろうとしていて、二人の関係に決定的な終止符が打たれようとする場面で、藤壺からの告白があり、二人が相思相愛であることが明白にされるわけです。藤壺は激しく拒絶していたように見せておいて、やはり藤壺は源氏を愛していた、不義密通の関係を結んだ源氏と藤壺は、本当は相思相愛のカップルであったという演出が為されるわけです。
前々回の記事「源氏1951批評1:解禁された不倫托卵の物語」でも述べた通り、戦前昭和には光源氏と藤壺の不義密通の関係の描写は抑圧され続けました。本作が制作された頃はまだ終戦からの日も浅く、そうした抑圧された過去が生々しい記憶として残っていたと思われる時期です。そうであればこそ、抑圧から解放された新時代になったことを印象付けたかったのであり、そのためには源氏と藤壺との不義密通関係こそ本作の中軸であることを視聴者に強く印象づける演出が必要だった。登場人物が不自然に源氏と藤壺の関係について語り、また源氏が藤壺の死を看取る場面まで描写するのは、まさにそうした演出の結果だった。
私はそのように考えたのですが、皆さんはどう思われるでしょうか?