源氏1951批評3:なぜ秘密の関係は知られているのか
前回の記事「源氏1951批評2:みんなにバレてる不義密通の関係」で確認したことは、原作では厳重な秘密であるはずの光源氏と藤壺の密通関係が、吉村公三郎監督・長谷川一夫主演『源氏物語』(1951)では多くの登場人物に知られており、それが不自然さを引き起こしているということでした。
どうして、原作を歪めて、不自然な印象を残すこうした設定にしたのかということについて、考察していきましょう。

私は、作中の設定の自然さよりも、視聴者に対する印象付けというメタ的な動機が優先させた結果ではないかと思います。具体的になにを印象付けたいかと言えば、それは「光源氏にとっての最愛の女性は藤壺である」ということであり、「光源氏と藤壺の関係こそ作品の骨格である」ということです。
『源氏1951』には、光源氏と関係を持つ女性が全部で5人います。素朴にこれら5人の関係にそれぞれ時間を割り当てるだけであれば、光源氏はそれぞれの女性を愛したのだという印象が残ることになるでしょう。しかしながら、本作の制作陣は藤壺を源氏に愛された多くの女性のうちの単なる1人ではなく、藤壺が源氏にとって最愛の女性であったと印象付けたかったのではないかと思います。
葵上も朧月夜も紫上も、更に弘徽殿までもこぞって藤壺との関係を口にするのであれば、藤壺が出ない場面でも視聴者は源氏と藤壺との関係を意識せざるを得なくなり、藤壺との関係こそが物語の中心であり、源氏の最愛の女性は藤壺であろうと感じさせられてきます。
小説の場合、地の文での説明を加えることによって、源氏が最も愛しているのは藤壺だとわからせられるのですが、映像作品ではナレーションを加えない限り、台詞を通じてそのことを視聴者に伝えるしかありません。本作では説明的なナレーションは付さず、代わりに様々な女君に藤壺の名前を語らせることで、源氏の最愛の女性が誰であり、誰と誰の関係が物語の中核であるかを、視聴者に伝えようとしたのではないかと思われるわけです。
とりわけ、源氏と関係を持つ葵上や朧月夜や紫上に藤壺の名前を語らせることは、彼女たちは藤壺より下位の女性でしかなく、藤壺との関係こそが源氏にとって至上なのだということを視聴者に印象付ける効果があります。
源氏と藤壺の恋愛関係の強調は、他の描写からも伺えます。光源氏が藤壺の死を看取る場面が描写される点です。源氏が藤壺の死を看取る場面は、源氏物語の原作にも確かに存在しますが、この場面が映像化されることは意外に少ないのです。少なくとも私が見たことがある映像作品の中では、この『源氏1951』しかないはずです(未見の『源氏1990』には、もしかしたらあるかもしれない)。
他の映像作品では、藤壺が出家する場面で二人の関係の描写に終止符が打たれることが多いです。このような終わり方になると、藤壺は最終的に光源氏を捨てた、二人の恋愛は成就しないままに終わったという印象を与えやすくなりますよね。
しかしながら『源氏1951』では、出家後に死の床についた藤壺を源氏が見舞う場面まで描かれます。更に、これは原作にはない描写ですが、藤壺は源氏のことを「恋しい人」と呼び、藤壺にとっても源氏が最愛の男性であったことを告白するのです。
本作の源氏と藤壺の関係には紆余曲折があり、最初の密通後も執拗に関係を迫る源氏に対して激しく抵抗する藤壺の様子も描かれます。演者である木暮実千代の厳しい表情も相まって、藤壺は源氏のことを本当に嫌っているのではないかとも感じさせます。
しかしながら、まさに藤壺が亡くなろうとしていて、二人の関係に決定的な終止符が打たれようとする場面で、藤壺からの告白があり、二人が相思相愛であることが明白にされるわけです。藤壺は激しく拒絶していたように見せておいて、やはり藤壺は源氏を愛していた、不義密通の関係を結んだ源氏と藤壺は、本当は相思相愛のカップルであったという演出が為されるわけです。
前々回の記事「源氏1951批評1:解禁された不倫托卵の物語」でも述べた通り、戦前昭和には光源氏と藤壺の不義密通の関係の描写は抑圧され続けました。本作が制作された頃はまだ終戦からの日も浅く、そうした抑圧された過去が生々しい記憶として残っていたと思われる時期です。そうであればこそ、抑圧から解放された新時代になったことを印象付けたかったのであり、そのためには源氏と藤壺との不義密通関係こそ本作の中軸であることを視聴者に強く印象づける演出が必要だった。登場人物が不自然に源氏と藤壺の関係について語り、また源氏が藤壺の死を看取る場面まで描写するのは、まさにそうした演出の結果だった。
私はそのように考えたのですが、皆さんはどう思われるでしょうか?
源氏1951批評2:みんなにバレてる不義密通の関係
源氏物語の原作を読んでいる多くの人は、吉村公三郎監督・長谷川一夫主演『源氏物語』(1951)を鑑賞した際に奇妙に感じるかもしれないことがあります。それは、光源氏と藤壺の関係が多くの登場人物が気づいていることです。

例えば、こんな感じです。まずは、光源氏と朧月夜のやり取り。
おぼろ🥰「好き。ずっと前から、好きなの」
ひかる🙄「私には他に好きな人があるのですよ」
おぼろ😳「藤壺様?」
ひかる😔(ため息)
次いで、懐妊がわかった葵上の許を訪れた際の光源氏とのやり取り。
あおい😠「藤壺様もご懐妊だと伺いました。どなた様の御子なの?」
ひかる🙁「ん?藤壺様が?」
あおい😩「まさか、貴方様の御子ではございませんでしょうね?」
ひかる😦「藤壺様が…」
更に、最後の方で紫上が源氏に語り掛ける台詞。
むらS😠「藤壺様と貴方様のことをお考えになってくださいまし!」
これは、映画の最後の締めくくる重要な場面での台詞なんですよね…
こんな感じで、源氏と関わる女君たちが源氏と藤壺の関係に気づいてしまっているのです。しかし、こうした場面を見て思ったこと。
ワイ😥「二人の関係がこんなバレバレでええんか…?」
私に限らず、源氏物語の原作を読んでいる人は違和感を覚えるのではないでしょうか?原作において、二人の関係は藤壺周辺の少数の人間以外は知ることのない、絶対的な秘密なのです。藤壺の死後に源氏が少し彼女の話題を出しただけでも、藤壺の霊が源氏の夢枕に出てきて秘密を洩らしたことを恨むと言ってくる(朝顔巻)ほどです。
源氏と藤壺の間にできた子供が東宮(皇太子)になれるのは、世間的には彼が桐壺帝の子供として認知されているからです。人々が源氏の子供として認知している場合、臣下の子供を天皇にすることは原則としてできない(※)ので、この事実は本来は厳重な秘密にされなければなりません。
※史実上は、臣下の子供として生まれながら即位した醍醐天皇(初名は源維城)という非常な特殊例があります。ただ、源維城が天皇として即位できたのは、父の源定省が皇籍復帰して宇多天皇として即位したという事情があるので、父親が臣籍のままなのに天皇になることは、やはりあり得ないことです。
ただ、妃を寝取られた桐壺帝(本作のクレジット上の表記は「御門」)は気づいていないような感じです。一度密通した後、藤壺がしつこく光源氏に追われて帝のところに逃げていき、帝の前で藤壺は泣くのですが、帝はその様子を不審がるという場面がありますので。朱雀帝(本作のクレジット上の表記は「朱雀院の御門」)も、やはり知らないのではないかと思われます。
もっとも、究極的には桐壺帝やその後継者である朱雀帝が臣下の子供として認知しなければ押し通せることではありますし、映画の設定上はそういうことなのかもしれません。ただ、なんとも不自然な印象がしてくることは否めません。
とりわけ、弘徽殿が源氏を嫌って失脚を図るという点は今作でも重要な設定になっているのに、その弘徽殿も源氏と藤壺の関係に気づいている点は、不自然さを更に助長します。
藤壺の部屋に押しかけて、光源氏が扉越しに藤壺に語り掛けているところに弘徽殿が現れて、
こきD😃「藤壺様と特別のご関係でもおありなの?」
と嫌味ったらしく聞いたり、須磨流謫の直後に弘徽殿の部屋に押しかけた藤壺に対して、
こきD😁「そんなに光の君をおかばいあそばすことは、おかしいことねぇ」
など言ったりします。どう見ても二人の関係に弘徽殿も気づいているようにしか見えませんが、それなのに藤壺に対して、
こきD😝「貴方様は黙ってそのお腹の御子をお産みあそばせばおよろしい」
と言って、藤壺が恥じらうように逃げる姿を見て弘徽殿は笑います。
どう見ても、藤壺のお腹の子供の父親が光源氏だと気づいているようにしか見えない弘徽殿ですが、それならいっそ帝に告げ口をして源氏失脚の決定打にしないのが不自然に思えます。もっとも、この場面では既に源氏と朧月夜の密会を発見して失脚が決まっているので(源氏物語の原作とは時系列が異なるが)、わざわざダメ押ししなくても既に決着はついていると弘徽殿は捉えているということかもしれませんが。
ただ、そのような解釈を取っても、やはり源氏と藤壺の関係の噂が広まっていることの不自然さは、なんとも否めません。
むしろ、不自然であるにもかかわらず、原作を歪めてまで、このように源氏と藤壺の関係が人々の間に広まっている設定にしたのはどうしてなのか、ということを考えた方が良いように思います。
その点についての考察は、次回に回しましょう。
源氏1951批評1:解禁された不倫托卵の物語
先日、大河ドラマ『光る君へ』の第27回が放送され、主人公のまひろは藤原宣孝と結婚している身でありながら藤原道長と密通して、娘を産む展開になりました。
源氏物語の中核を占めているのは、光源氏と藤壺、そして柏木と女三宮の間で生じる不倫托卵話です。『光る君へ』には源氏物語のオマージュが散りばめられているので、最大のオマージュとなる不倫托卵話を入れてくるだろうと予想していて、実際その予想通りになりました。
ところで、私は某匿名掲示板で大河ドラマを語る場所によく行くのですが、先にガイド本が発行されてこうした不倫托卵の展開になることが明らかにされてからというもの、非常な反発意見が多く書き込まれてきました。正直なところ、こんなに反発が多いことに少し唖然としております。
ワイ「ただの作り話に、なんでそんなに発狂するんじゃ…?😥」
…と思うのですが、源氏物語の受容史を振り返ってみれば、こうした反発はあって当然なのかもしれないという気もしてきます。源氏物語のとりわけ光源氏と藤壺の不義密通と冷泉帝托卵の部分は抑圧されていた過去があるからです。
江戸時代後期に柳亭種彦が執筆した『偐紫田舎源氏』という源氏物語の翻案小説の描写を見ると、源氏物語に散見される不倫描写を回避しようとする姿勢が感じられるのですが、こちらの話は別の機会にするとして、これから批評しようと考えている『源氏1951』の直前の状況を見てみたいと思います。
この作品の上映から遡ること18年前の1933年11月、上演が予定されていた源氏物語の演劇が、警視庁によって上映禁止に追い込まれました。この弾圧事件を伝える当時の新聞見出しが、下記のブログ記事で紹介されています。
この上演禁止になった源氏物語演劇の脚本を書いたのは番匠谷英一でしたが、彼の源氏物語論について論じた中村ともえの論文『番匠谷英一と舟橋聖一の「源氏物語」』(下のリンクからダウンロード可能)には、この上演禁止事件の他にも、自主削除も余儀なくされるなど、源氏物語に対する様々な社会的抑圧が為されていたことが紹介されています。
この戦前の源氏物語弾圧で最も問題視されていたのは、光源氏と藤壺の不義密通に関わる部分であったようですが、この部分が問題視されたのは皇位に臣下の子供が就くというストーリーが、物語とはいえ戦前(特に昭和前期)に絶対化された天皇の権威を損なうという点にもあったのでしょう。
しかし、相手が皇妃かどうかというだけの問題ではなく、不義密通を取り扱うことそのものが問題視されていた形跡もあります。谷崎潤一郎訳源氏物語の自主削除問題を論じたWikipediaページでは、谷崎たちが最も発禁処分になる可能性が高いと警戒していたのは、空蝉に関わる部分だったと紹介されていました。
空蝉は皇妃ではないので、彼女と関わったから皇室の権威が損なわれるということはありません。ただ空蝉は人妻であるに違いないので、不倫を描くことそのものを抑圧しようとする社会的な空気があったということだと思います。
戦争が終わるまではずっとこの調子で抑圧されていたようですが、戦後になると状況は変わります。戦前まで存在していた姦通罪は1947年に廃止され、坂口安吾の堕落論のように不倫を擁護するような言説が流行する時代になりました。
そのような雰囲気がまだ冷めやらぬ頃に制作された映画が、吉村公三郎監督・長谷川一夫主演『源氏物語』(1951)であったわけです。源氏物語訳の自主削除を余儀なくされたばかりでなく『細雪』の発禁など何かと抑圧されていた谷崎潤一郎を監修に迎え、藤壺との不倫托卵の物語を中心に据えた作品となりました。
本作に登場する女君は藤壺に限りませんが、それにもかかわらずこの映画の中心にあるのは光源氏と藤壺の物語だと確かに見ることができます。どうしてそう言えるのか、次回以降に説明していきましょう。
光源氏の前半生に偏る源氏物語の映像化
源氏物語は、光源氏の生きている第一部(光源氏の出生から准太上天皇就位の頃まで)と第二部(女三宮降嫁の頃から光源氏の出家まで)、及び光源氏死後の第三部に大きく分けられています。

しかしながら、源氏物語を映像化するとなると、第一部の更に前半(光源氏の播磨流謫の場面まで)に偏る傾向が強いんですね。これまでの記事「源氏物語映像作品によく登場する女君は?(2)」「源氏物語映像作品によく登場する女君は?(3)」で確認した女君の顔ぶれが、そのことをよく示しています。
皆勤賞の藤壺は、光源氏より播磨流謫から帰京してからしばらくして亡くなりますし、同じく皆勤の葵上は光源氏が播磨に行く前に亡くなっています。精勤賞組の六条御息所も源氏が播磨から帰京してほどなく亡くなりますし、朧月夜も帰京後は源氏との関係がしばらく断ち切れて登場しなくなり、若菜巻になって少し再登場するだけです。弘徽殿も源氏の播磨流謫中に病気になり(源氏の帰京を可能にする背景の一つですが)、その後は源氏が彼女を見舞う場面が少し描かれるだけで登場しなくなります。
一方、第一部後半の主要な女君は紫上、明石君、玉鬘などで、第二部になると女三宮が加わるのですが、精勤賞だった紫上を除くと登場作品はあまり多くありません。源氏物語の映像化が第一部前半に偏っていることは、女君の登場回数の過多によってもわかることなんですね。
どうして、第一部前半に偏るのかということですが、映像化するのに適した題材が第一部前半の方に偏っているんですね。藤壺との不義密通と出産托卵、葵上との不仲な夫婦関係から出産直後の劇的な死亡、六条御息所の車争いや生霊化、朧月夜との密通発覚から須磨流謫への展開など、第一部には非日常的なドラマチック展開が多いんです。
ところが第一部後半になると、ドラマチックな展開があまりなくなるんですね。ドラマチックな場面としては、明石上が紫上に娘を預けるとか、源氏が六条院という大きな屋敷を築くとか、源氏が准太上天皇の位に就くとかのあたりかと思いますけど、第一部前半にしばしば見られたハラハラドキドキという感じではありません。
玉鬘は、太夫監の手から逃げて九州から京にやってくる場面はまぁまぁドラマチックなんですが、太夫監と直接接触するわけではありません。京で光源氏に引き取られてからは彼女への求婚譚が始まりますが、竹取物語のかぐや姫のような難題を求婚者に与えるという展開があるわけではありません。源氏物語より少し前に作られたらしいうつほ物語にもあて宮への求婚譚があって、求婚者にまつわるドラマチックなエピソードがいくつかありますが、そういうのも特にない。いわゆる玉鬘十帖というのは、行事の様子とか、情景描写とか、そういう日常的な光景を延々と描写するんですよね。こういうものを現代人が映像で長く見ても、多くの視聴者はそのうちに飽きますよね。
第二部や第三部だと、女三宮の密通托卵や浮舟の入水未遂などは第一部前半的なドラマチックな場面ですが、逆に言うとあれだけの長さの割にこの程度しか見つからない。紙幅を費やしているのは、登場人物の長い心理描写なんですね。
心理描写というのは文章で書かれるとのめり込めるものですが(あくまでも、好きな人にとっては、ですが)、映像化しても心の声とかを延々と続けるだけになってしまうので不向きです。
源氏物語というのは、第一部前半はドラマチックな展開が多くて大衆小説的要素のようだけど、第一部後半以降は情景描写や心理描写が多くて純文学的という印象を受けます。純文学というのは、映画やドラマにしてもあまり受けるものではありません。現代の映像作品の対象にしやすいドラマチックな場面を選ぼうとすると、どうしても第一部前半の方に傾斜していかざるを得ないのかなと思います。
源氏物語映像作品によく登場する女君は?(3)
前回は皆勤組の女君を紹介しましたが、今回は一回だけ出なかった精勤組の女君の紹介です。
写真は、著作権切れしている『源氏1951』の4Kカラー化復元作品からのスクショです。
源氏物語 / The Tale of Genji (1951) [4kカラー化 映画 フル / 4k, Colorized, Full Movie] - YouTube
精勤賞:六条御息所【登場回数8回】
嫉妬心が高じて、生霊となって(更に死霊としても)光源氏の妻妾を襲う六条御息所の物語は非常に劇的な要素が強いため、ドラマ化されやすいのだと思います。室町時代にできた能の有名演目である『葵上』も、六条御息所を描いたものです(表題になっている葵上自身は、この演目には出てきません)。
しかし、源氏物語の女君の中でもとりわけよく知名度の高い女君でありながら、出なかった作品が一つだけあります。実はそれが『源氏1951』で、六条のスクショが用意できない理由は出ていないからに他なりません。
どうして六条は『源氏1951』に出なかったのか?この点については、近いうちに改めて考察したいと思います。
精勤賞:紫上【登場回数8回】

源氏物語のメインヒロインはだれかと考えた場合に、藤壺と紫上のどちらだと考えるべきかで議論になるかと思います。少なくとも、源氏物語で一番長く登場する女君は紫上であるに違いないので、それを基準にするならメインヒロインは紫上なのでしょう。
ただ、それにもかかわらず、映像作品における紫上は藤壺に比べて目立たないことが多いです。そうなる理由は、現代の映像作品の題材となりやすいドラマチックな場面が光源氏と知り合う幼少期に限られていて、成人化した後の紫上は良くも悪しくもただの妻になってしまい、ドラマチックな出来事に恵まれないという事情があります。
もっとも、幼少期の光源氏との出会いの場面だけは有名なので、これはやるのが普通なのですが、その記録が途切れたのは最新映画である『源氏2011』でした。この映画は源氏物語の本当に初期の部分だけを切り取っているので、紫上との出会いも省略されたのです。
精勤賞:朧月夜【登場回数8回】

朧月夜もかなりよく登場しますが、その理由は光源氏の人生の転機である須磨流謫を発生させるために欠かせないキャラであるという事情が大きいと思います。
また、光源氏の敵役として弘徽殿が登場しやすいため、彼女の妹である朧月夜も一緒に出やすいという事情もありそうです。ただ、原作の設定では朧月夜は弘徽殿の妹なのですが、親子に近い年齢差のある妹であるため、現代の映像作品では年齢差に見合った血縁関係にしたいのか、朧月夜は弘徽殿の姪として設定されることが多いです。
ただ、須磨流謫にすら辿り着かない初期だけが舞台になる『源氏2011』では、紫上共々存在が消去されてしまいました。
精勤賞:弘徽殿【登場回数8回】

源氏物語の女君の定義を光源氏の恋愛対象となる女性として定義すると、弘徽殿は女君には該当しないのですが、光源氏に関わる女性として捉える限り、弘徽殿も非常によく登場します。
光源氏の母親である桐壺更衣への帝の寵愛に嫉妬し、源氏の成長後は彼の失脚を企む最先鋒キャラとして描かれるため、敵役としての需要が非常に高いわけです。妹の朧月夜が出なかった『源氏2011』ですら登場した弘徽殿ですが、『源氏1966』に出ていないために皆勤は逃しています。
『源氏1966』は光源氏と恋愛関係になる女君が非常に多く登場する作品なのですが、そのために恋愛関係にならない弘徽殿の存在は消去されたと考えられます。
1回出ないだけの精勤組は以上の4人です。この後は、夕顔と(光源氏と恋愛関係になるわけではないが)秋好中宮が6回登場で続いていきます。
源氏物語映像作品によく登場する女君は?(2)
それでは前回の記事「源氏物語映像作品によく登場する女君は?(1)」で紹介した9つの源氏物語の映像作品の中で、よく登場する女君が誰だったか、調査結果を発表します。
文章だけだと退屈なので、最も古い源氏物語映画で、著作権が既に切れている作品(パブリックドメイン)『源氏1951』からの写真引用を行いつつの紹介にしたいと思います。もっとも『源氏1951』は本来は白黒作品なのですが、4Kカラー化した下の動画からスクショさせてもらったので、AIによる着色が行われています。
源氏物語 / The Tale of Genji (1951) [4kカラー化 映画 フル / 4k, Colorized, Full Movie] - YouTube
ちなみに『源氏1951』で光源氏を演じたのは、戦前から戦後にかけての時代劇スターとして有名な長谷川一夫でした。「ミーハー」という言葉の語源を生んだとも言われる程の伝説的な人気を誇った美男子俳優ですが、『源氏1951』の公開時は既に43歳になっておりました。
当ブログ記事のサムネイル画像として用いているのも、この作品(の4Kカラー版)における長谷川源氏の画像です。

それでは、登場回数が多い女君を発表していきます。今回は、全ての作品に登場していた皆勤組の発表です。
皆勤賞:藤壺【登場回数9回】

調査した9つ全ての作品に登場しておりました。
光源氏は父帝の妃との不義密通を通じて子供を儲け、その子が帝として即位することが源氏を准太上天皇という臣下を超えた身分にまで押し上げますが、その後に新たに娶った妻が不義密通の末に子供を産むという栄光と因果応報の物語は、長編である源氏物語の核を形成している物語。この核を外す映像作品は(今のところは)ありません。
皆勤賞:葵上【登場回数9回】

藤壺と同じく、全9作品に登場していました。
光源氏の最初の正妻ですが、夫婦仲はよくありません。しかし妊娠を契機に関係が修復されていき、いよいよ子供を出産して関係が良くなると思われたところで、突然の死に見舞われる。こうした夫婦関係の劇的な展開はドラマ向けとも言えるのでしょう。好んで描かれる題材になっています。
全登場は、実のところこの二人だけです。一作のみ登場しない女君が、何人か後に続きます。それが誰かについて明かすことは、次回の記事に回します。
源氏物語映像作品によく登場する女君は?(1)
源氏物語を映像化した作品はこれまでにいくつもありますが、大長編である源氏物語の全体を映像化している作品はまずありません。源氏物語は光源氏が出てくるパート(第一部・第二部)と光源氏死後のパート(第三部)に大きく分けられますが、光源氏パートに限定しても、全てを網羅した映像作品の存在は知りません。
もっとも、源氏物語のWikipedia記事を参照すると、まだ白黒テレビの時代に長期間にわたって源氏物語をドラマ化したこともあったらしく、それだけの時間を費やせば全て網羅していた可能性も否定はできません。ただ、これだけ古いテレビドラマのフィルムが残っている可能性は低く、今となってはもう見られないでしょうし、放送内容の確認も極めて困難です。
現在でも見られるのは映画作品か、カラー化して以降のテレビドラマ作品に限られます。2時間前後の作品になるのが普通であるため、光源氏パートだけでもかなりの長編である源氏物語の全体を網羅することなどできません。題材を取捨選択することは避けられないのですが、どの題材を選んでくるかがそれぞれの作品の大きな特徴になります。
題材を取捨選択するのであれば、登場する女君も自動的に取捨選択されていきます。逆に言うと、どの女君が登場しているかで、どんな題材が取り上げられるか想像できるということです。
そこで、登場する女君が確認可能なこれまでの源氏物語映像作品(アニメ作品を含む)の中で、どの女君が何回登場したかを調べてみました。対象となるのは、以下の9作品です。同じタイトルになることも多いので、当ブログでは公開年次に基づいた略称でこれらの作品を呼ぶことにします。
『当ブログで使用する略称』⇒主要スタッフ『正式題名』公開年
- 『源氏1951』⇒吉村公三郎監督、新藤兼人脚本『源氏物語』1951年(※映画)
- 『源氏1961』⇒森一生監督、八尋不二脚本『新源氏物語』1961年(※映画)
- 『源氏1966』⇒武智鉄二監督・脚本『源氏物語』1966年(※映画)
- 『源氏1980』⇒向田邦子脚本、久世光彦演出『源氏物語』1980年(※テレビドラマ)
- 『源氏1987』⇒杉井ギサブロー監督、筒井ともみ脚本『紫式部 源氏物語』1987年(※アニメ映画)
- 『源氏1991』⇒橋田壽賀子脚本、鴨下信一演出『源氏物語 上の巻・下の巻』1991年(※テレビドラマ)
- 『源氏2001』⇒堀川とんこう監督、早坂暁脚本『千年の恋 ひかる源氏物語』2001年(※映画)
- 『源氏2009』⇒出崎統監督・脚本『源氏物語千年紀Genji』2009年(※テレビアニメ)
- 『源氏2011』⇒鶴橋康夫監督、川崎いづみ・高山由紀子脚本『源氏物語 千年の謎』2011年(※映画)
これらの作品の中で、『源氏1991』と『源氏2009』はまだ未見なのですが、クレジットやあらすじなどを通じて、どの女君が登場するかは大体把握できます。また、源氏物語映画としては他に『源氏物語 浮舟』(衣笠貞之助監督・脚本、八尋不二脚本、1957年)も存在するのですが、これは光源氏死後の宇治十帖を描いた映画なので、考察対象からは除外します。
これら9作品の中で、登場回数の多い女君を中心に紹介していこうと思います。それでは一番多く登場している女君は…
についての発表は、次回以降のお楽しみということで。
![源氏物語(1951) [DVD] 源氏物語(1951) [DVD]](https://m.media-amazon.com/images/I/41ZYgSf17fL._SL500_.jpg)